医療・福祉関係者のみなさま

2011年10月3日

フクシマで生きていきたい ~NO! 原発~ 福島県民医連が初のピーチャリ ●青年職員リポート   ペダルにこめた僕らの願いは

 九月二三日、福島県・いわき市を、自転車の一団が走り抜けました。空色のTシャツに書かれた文字は「フクシマで生きていきた い~NO! 原発~」。福島県民医連で初めてとりくんだピーチャリ(反核・平和自転車リレー)は大成功。若者を中心に四五人が津波被災地や市街地など四五 キロを走行、給水などの後方支援で、多くの共同組織の人たちの協力ももらいました。いまなお原発事故の被害の渦中にいる彼らは、どんな思いをペダルに込め たのか―。実行委員の一人・熊谷智さん(県連事務局)の報告です。

開催までの道のり

 福島県初のピーチャリ(反核・平和自転車リレー)は、文字通り震災を機に実現しました。
 実行委員会は東日本大震災発生から一カ月後の四月に発足、開催の是非から話し合ってきました。
「走行コースやスローガンをどうするか」「被災地で私たちは何をどうアピールすれば良いか」「被災者に寄り添う気持ちが伝わる企画にしたい」。ふり返るとこの日までに重ねた議論が大切でした。
 「福島でもピーチャリをやりたい」という声が出たのは、二〇一〇年暮れ。県連の平和学校で視聴した綱領学習平和DVDで、他県のピーチャリの様子を見た 受講者たちが乗り気になりました。県連平和委員会とJBでとりくもうと浜通り医療生協の工藤史雄さんを中心にさっそく具体化を開始。しかし、福島県内の主 な事業所すべてをリレーする、という最初の提案には「意図は分かるが正気か?」という受け止めが多く、皆が合意できる企画を探るうちに、三月一一日を迎え ました。

 被災で止まっていた議論でしたが、「こんな時だからこそピーチャリを」と、平和学校を担当していた県連事務局の町田理恵子さんが言い出しました。「開催する。でも企画内容は一から検討」という方向で、冒頭で紹介した実行委員会発足に至ったのです。
 会議では主に二点の意見が出ました。一つは「外を走って大丈夫か」「全県退避もあるかもしれない」など原発事故と放射能への不安。もう一つは開催の意義 について。「『平和』や『反核』の意味は三・一一を境に変わった。アピールする必要はあるのか?」といったとまどいです。被災からまだ一カ月、悩んだのは 当然でした。
 開催に向けて動き出したのは、全日本民医連が四月二日の臨時理事会で出した緊急声明がきっかけでした。「医療団体なのに『全国から原発をなくそう』と発 信するのはすごい」「ピーチャリをやるなら事故の現地として、原発問題は外せない」と。今後原発で新たに重大事態が起こればもうピーチャリはできない、と いう思いも。

皆で考えたスローガン

 その後、第二、三回の実行委員会で、津波の被害が大きかったいわき市で走ることと、「フクシマで生きていきたい~NO! 原発~」というスローガンを決めました。
 スローガンには実行委員のこだわりを込めています。
 最初に提案されたスローガンは「フクシマで生きていこう」でした。これに対し一人がおずおずと言いました。「みんな悩んでいる。農業を続けられないと命 を絶つ人も出た。『生きていこう』と呼びかけて良いのだろうか」。不安を抱えながら福島で生活を続けている人がいて、津波や放射能に追われ故郷の土を踏め ない人もいて、汚染された土地にいられないと避難を考える人もいるのです。
 これには全員ウンウン唸りながら考えました。そして「でも本当はみんな『フクシマで生きていきたい』んだ」と一致。スローガン一つを決めるためのこうい う議論が、一段深いところで企画を捉える契機にもなったと思います。

 「NO! 原発」のロゴ入りTシャツでいわきを走る日。宮城や全日本民医連の仲間も参加しました。励ましもたくさん。北海道や長野からはカンパや寄せ書きが。また地元・浜通り医療生協の組合員さんたちは、当日の支援だけでなくTシャツを率先して購入。
 原発事故後「フクシマ」と表記されるようになった福島の民医連職員として、僕らは「原発付きの福島を取り戻すのでなく、原発のない福島・日本をつくろう」と決意しています。

(民医連新聞 第1509号 2011年10月3日)

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