医療・福祉関係者のみなさま

2011年8月15日

被災地発(5) 被災した医療過疎地で公立病院支える医師のリレー 宮城県気仙沼市

 「七 月いっぱい医師派遣ができないか?」―。六月末に日本医師会から、全日本民医連に連絡が入りました。行き先は宮城県北東部にある気仙沼市立本吉病院(三八 床)。急な要請でしたが応えました。同院の常勤医二人は被災直後にあいついで辞職。医療崩壊の危機にあった地域の問題が被災で噴出した形です。地域の医療 機関は同院以外になく、さまざまな医療団体が医師を派遣し医療をつないできました。支援した医師たちが寄せた報告書から紹介します。(木下直子記者)

医師ゼロになった市立病院

 三月一一日、本吉病院は深刻な津波被害を受けました。一階は大人の背丈ほど浸水。入院患者や職員は二階に避難して無事でしたが、カルテや医療機器が水につかり、使えなくなりました。
 交通が寸断されたため、地域(本吉地区)の人たちが受診できる医療機関は、本吉病院をおいてほかになくなりました。病院長は自身も津波にのまれ、命拾い しながら、一日に二〇〇人以上の患者が押し寄せる事態に対応しました。通常の数倍の患者数です。しかし、一九人の入院患者の転送を終えた三月二〇日、辞表 を残して姿を消しました。もう一人の常勤医も、体調を崩し辞任。人口一万一〇〇〇人の本吉地区が、常勤医ゼロという事態に。
 被災直後から支援に入っていた徳洲会グループの災害医療協力隊が、五月初旬まで滞在しました。その後は、全国国民健康保険診療施設協議会と全国自治体病 院協議会が医師を各一人派遣。七月からは日本医師会がJMAT(災害医療チーム)として医師二人を送ることに。このうち一人を民医連が担いました。

身近な病院の価値

 民医連の医師支援は、宮城と東京から三人入ったほか、山形・滋賀・愛知から一人ずつの計九人。
 「地域にはいまだに瓦礫の山や打ち上げられた船が残っていた。院内は至るところに津波の跡。防災ドアやエレベーターのドアが津波の水圧で変形。しかし病院の外観は津波をかぶったと思えないほどきれいだった」(山田裕・坂総合病院副院長/宮城)。
 現在、同院は一階で診療しています。病院の危機を聞きつけた住民約一〇〇人が、泥出しなどの作業を自主的に行ってくれたのです。自治体合併に伴い、医療機能の縮小が検討されていた同院でしたが、震災を機に「身近にある医療機関」の大切さが地域に再確認されています。
 「残った職員たちは、地域住民の思いに応えるために、支援医師たちとともに、欠けることなく病院を守っています」(東昌子・膳所診療所所長/滋賀)。
 常勤医不在のため、同院の活動はいまも「災害医療」の扱いで、病棟も閉鎖中。保険診療に切り替えることができていません。
 「私たちが震災支援をしたことには違いないが、内容は医師不足地域への診療支援だった」と、山田医師は指摘します。常勤医師の辞職はセンセーショナルに報道されましたが、辞めた医師を非難する声は現地ではありません。

 地元では一時、病院閉鎖の話もありましたが、このほど存続が決定し、常勤医師の確保もすす みはじめました。「今回の震災で、民医連の活動は外部から驚きの目で見られています。さまざまな医療団体との連携も前進しました」と、全日本民医連の遠藤 隆事務局次長(医師部)は語ります。「地域の医療崩壊を食い止める運動にもつなげたい」。

(民医連新聞 第1506号 2011年8月15日)

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