医療・福祉関係者のみなさま

2011年5月23日

1500号感謝特集 「民医連新聞のお仕事」 新人(やはぎ・やすまる)記者リポート

 民医連新聞は今号で1500号を迎えました。全国の仲間をつなぐ「絆」として1963年の創刊から48年と少し。ささやかな感謝を込めて、編集部に入りたて矢作・安丸2人の記者が、民医連新聞のお仕事をリポートします。

民医連新聞ができるまで

民医連新聞 DATE

発行日   第1・3月曜
発行部数 6万7000部
通信員数     927人
編集スタッフ     4人

【企画を立てる】
 まず、ここが出発点。全日本民医連が課題にしている運動面の動きや職員に知ってほしい社会問題、現場の仲間から寄せられたイイ話、などから取材計画を立てていきます。

【取材をする】
 人物インタビューや事業所のとりくみなど、取材の種類により記者の動き方は違いますが、話を聞き写真を撮り、大忙しです。

【原稿づくり】
 取材で見聞きしたことをもとに書きます。簡潔で読み手に分かりやすい文章に、何度も直します。
 依頼した原稿も編集します。

【入稿】
 記事、写真、見出しを紙面にレイアウトする作業。読者の目を引きつける紙面にしなければ!
印刷会社から原稿を取りに来る塚原さんの姿にドキドキ。
ここに皆さんからの通信も合流!!

【校正】
 校正紙(ゲラ)を見て、誤字、脱字をチェック、色の調整などの作業を行います。

【印刷】
 校正後は、あかつき印刷の出番。一号分でこの大きな「巻紙」一つ・約一トンを使うそうです。

【できあがり】
 こんな流れで、民医連新聞はみなさんの手元に届けられています。編集メンバーは、矢作・安丸の2人に加え、ベテラン・新井健治記者(「俺の写真は高倉健 さんに」と主張し、却下された)、編集長・木下直子(28歳関西人、年齢詐称疑惑アリ)の4人で作っています。「あなたがいないと始まらない」のが民医連 新聞。
 1501号からもよろしゅう!

がんばります!

 安丸雄介…27歳 福岡の健和会大手町病院から4月1日に配属されました。6面と8面担当です。
 目を背けたくなる事実…初めての取材は4月26日に農民連が東京電力に損害賠償を求めた集会で、とても印象に残りました。医療事務と医学生担当事務の経 験しかない中、報道陣が詰めかける現場は、写真を撮るのも難しかったです。
 集会では、ある農家が26年間も有機農法で安全な作物を作り続けてきたにもかかわらず、原発事故でだめになった、と訴えました。思わず目をそむけたくな る事実にも向き合う職場なのだと感じました。
 真実を届ける役割…また、私は全日本民医連事務局員として、宮城の対策本部の支援に4月13日から5日間派遣されました。「マスコミで報道されていない 現実が現場にある」という一言に尽きました。
 石巻市の友の会会員さんの地域訪問に同行し、会員宅の被災状況や安否の確認、支援物資を提供しました。被災地は、復興に地域格差が生まれています。訪問 先では「同じ近所でも大通りに面するかどうかでライフラインの復旧作業の優先順位が違う」と不満がこぼれました。
 また、現地対策本部には支援の対応も自治体によって違う、と情報も入りました。今後も、新聞が真実を届ける役割を果たせるよう貢献したいと思いました。
 新任記者として…この1500号の紙面をつくる中で、長瀬事務局長が私たち新人記者にこんな期待の言葉をくれました。
 「知識がなければ学べばいい、知恵がなければ経験を積めばいい。これらは後からついてくる。大事なことは民医連を好きになり、職員の苦悩などを聞く意欲だ」
 この期待に添うべく、職員のみなさんの声に耳をきちんと傾け何事にもアンテナを高くし、みなさんの経験を全国へ届けたいと思います。

 

 矢作史考…25歳 3月1日から編集部に配属され、現在は主に3面と7面を担当しています。青森の八戸医療生協小規模多機能ホーム「みなみるいけの家」で介護職員(社会福祉士)をしていました。
 東京に来て早いもので2カ月が過ぎました。編集部に配属されてからは大変でした。以前の職場は緊張感がありながらも、認知症の利用者がその人らしく生活できるように援助していくことに、とてもやりがいを感じていました。
 それが編集部では、記事は書けず、取材もうまくいかない。写真を撮ればピンぼけするなど、「仕事ができない」と落ち込んでしまいました。そんな中で、3 月11日の東日本大震災が。地元・八戸の漁港が津波にのまれるのをテレビで見ました。家族や元の職場の利用者やスタッフの安否が気になりました。身内に大 きな被害はなかったものの地震や津波の怖さを知りました。
 全日本民医連事務局では震災の影響で、帰宅難民になる人がいながらも、被災地の県連や事業所に連絡をとり、災害支援体制を整えました。私自身も全国から 集まってくる支援物資の積み込みや、緊急連絡に備えて事務局で当直もしました。そういったとりくみの中で、自分が民医連の組織の一員になれたことに誇りを 感じることができました。
 この2カ月あまりで、いろんな経験を通して、少しずつ自分が成長できていると思います。これからは、記者として自分のバックボーンでもある、介護現場で 求められていることや現場の職員が利用者のQOL向上のために実践していることなどを発信していけたら。加えて、平和、社会保障の動きをいち早く届けるこ とができるようにがんばります。
 最後に付け加えて…体を動かすことが減り、3キロも太りました。帰任までには痩せないと!

 

発行責任者 長瀬文雄事務局長

民医連新聞には職員のドラマがある

 いま民医連の職員は全国一七六六事業所で八万二〇〇〇人を超えています(〇九年時点・非常勤職員含む)。民医連新聞は、それらの職員向けに発信され、OB・OGなどにも読まれています。
 創刊号は一九六三年一月でした。その一面には、北海道勤医協の看護学生の写真。紙面の企画は「地理的な離島があっても命に離島があってはならない」をス ローガンに設立された鹿児島の離島・奄美診療所と北海道の農村・黒松内診療所の看護師たちの紙上討論です。「北海道の職員が奄美の活動を知り、奄美の職員 が北海道の活動を知ることができる」、民医連新聞はそんなふうに命を守る民医連医療とたたかいの経験を共有できる職員の唯一の情報源として、全国の職員の 心をつなぎたいとの思いで出発しました。
 民医連新聞の魅力は、まさに職員のドラマが記事に凝縮されていることにあります。私は講演で新聞の情報を使って報告しますが、会場から「リアルな報告 だ。どこで知ったのか」とよく質問をされます。通達文書のように一方通行に伝えるのではなく、毎朝の朝礼などで良い記事を読むなど、ぜひ職場全体で共有で きるように活用してほしいと思います。
 また、忙しい職場の現状も考え、八年前に紙面サイズをタブロイド版に変え、読みやすく簡単に持ち運べ、ホッとする話題もとりいれて、内容も含めて刷新を めざしました。発行も一、一一、二一日の月三回から、第一・第三月曜の月二回へと変え、職場の流れに合うよう努力しています。
 また、紙面は編集部の記者だけでなく、全国の通信員が寄せる記事で作られており、読者も活躍する双方向型のものです。これは今後さらに発展させていきたい、民医連新聞の持ち味です。
 民医連職員の心をつなぐのが民医連新聞です。ささやかでもよいのでぜひ通信を寄せて下さい。
 通信や情報は全国の仲間へ発信され、宝になります。民医連新聞をみなさんの職場での奮闘の確信と勇気にしてほしいと思います。

(民医連新聞 第1500号 2011年5月23日)

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