医療・福祉関係者のみなさま

2011年4月4日

福島からの避難者に医療相談を行う 東京

 県外に避難した福島県民は三月二二日現在、二万三〇〇〇人に達しています。二三日、福島の避難者専用に東京都が設置した避難所のひとつ東京武道館(足立区)を東京民医連の医師らが訪問し、医療相談にあたりました。(木下直子記者)

 避難所を訪れたのは地元・柳原病院の宇留野良太事務長と吉田万三副会長。そして代々木病院からは広島、長崎の原爆被爆者をケアしてきた精神科の中澤正夫医師を先頭に看護師、SW、事務長など五人。会館前でボランティアが豚汁の炊き出しをしていました。
 医療面でのフォローは地元医師会があたることになっており、民医連のメンバーは医師会の支援者として避難所に入りました。
 この日、東京武道館に身を寄せていたのは一三〇数世帯・約三五〇人。広い武道場の板の間に畳が敷かれ、低い段ボールを世帯単位の区切りに使っていまし た。毛布は一人に数枚、ロビーには下着や古着、飲料水などが置かれていました。
 フロアの端に都職員が立っていましたが、被災者への声かけをしている様子はなく「被災者の状況把握が弱い」と、医師会の医師。地域の医師らも、診療の合間の訪問で、滞在は一日一時間ほどです。

 私たちが着いた際に救急車が一台出て行きました。「一家でこの避難所に来たが、年寄り二人が入院した」と話す家族も。声をかけてゆくと、それぞれ話が止まりません。
 ツテをたどって安全なところに逃げていたら、雪だるま式に三〇人の集団になったという一族。
 老親を連れた三人家族は「原発二〇キロ圏内の避難勧告が出て、避難所に辿りついたものの、満員を理由に入れてもらえず、スーパーの駐車場で四晩野宿をしていた」と。
 原発の二キロ圏内に住んでいたという年配の女性は、野良仕事中に被災。「着の身着のまま津波から逃げ、その後は原発から逃げてきた。今になって残してきた猫が不憫で毎晩泣いている」と話すうちにまた嗚咽。便通が悪く苦しいと訴え、受診しました。
 震災で味わった恐怖、プライバシーのない環境、放射能に汚染されてもう家に帰れないかもしれないという先ざきへの不安、着の身着のまま逃げた人は手持ちのお金がないという心配も出ていました。眠れない、というのは共通していました。
 元気に遊び回っている子どもたちの会話にも震災の影響が。
 五歳くらいの女の子は「津波がドカンと来て、何もしゃべれなぐなった子がいたの」。また、中学生の男の子をもつお母さんは、息子が夜中に起き上がり「原発を鎮めにいかねえと!」と、叫んだ話をしてくれました。

    ◆

 「人数の多い集団は比較的元気。気を配らなければならないのは、小集団です。PTSD予防に大事なのは、独りにしないこと」と中澤医師は、注意点を指摘。ひき続き、被災者のケアに関わってゆくことを検討しています。

(民医連新聞 第1497号 2011年4月4日)

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