医療・福祉関係者のみなさま

2011年4月4日

東日本大震災 現地リポート 被災地で仲間たちは ―宮城・坂総合病院

 新入職員の皆さんが初めて手にする紙面は、被災地発。地震発生翌日に宮城民医連・坂総合病院に入った『いつでも元気』井ノ口創記者のリポートです。いまどの地でも、支援活動は先輩たちから語られていることでしょう。
 新しい仲間を心から歓迎しつつ。

 三月一二日、車で東京を発ち、宮城民医連の坂総合病院(塩竃(しおがま)市)をめざした。消防などの緊急車両がひしめく東北道を七時間走る。到着すると停電の暗闇に沿岸の石油コンビナートの真っ赤な火災だけが不気味に浮かんでいた。
 病院玄関では、続ぞくと到着する救急車を医師・看護師などの職員が待ち構え、トリアージ。赤、黄、緑、そして黒(死亡)の治療優先度ごとに患者を治療室 に運んでいた。病院は塩竃市だが多賀城市との中間点で海に近い。患者は津波による低体温症が圧倒的だった。
 院内には「津波で全壊」「全焼」「自宅に船が突っ込んだ」職員たちの被災状況をメモした掲示板があった。家族の安否が確認できないまま、働き続けている職員もいた。
 病院の廊下で毛布にくるまって就寝。自家発電で最低限の機器は動いたが、灯りや暖房はない。東京・立川相互病院、神奈川・川崎協同病院の支援チームも到着。

避難所に初めて入った医療班

 一三日朝から、支援の医師らが自治体指定の防災マップを頼りに避難所の訪問へ。外は火災の煙で、息が詰まりそうな空気だ。目や喉が痛い。
 避難所の小学校、給水を待つ人たちの長い行列を横目に体育館へ。足の踏み場もないほどの人。安否確認の無数の張り紙の前で、避難所を何カ所も回り家族を捜す男性が「生きていてほしい」と。
 校舎に入ったスタッフらは、保健室を見つけて手際よく診察室につくりかえた。避難所にアナウンスすると、子ども、老人、車イス、続ぞくと患者が集まって きた。動けない人は往診することに。「避難所に来た医療班は、民医連が初めてです」と市の職員。
 次の避難所では高齢者の姿が目についた。身障者施設から避難した約四〇人もいた。寝たきりの方も多数。「避難は大変でした」と、つきそいの施設職員。
 「財布だけは持って出たが、血圧の薬がない」という高齢者の訴えを山城直子看護師(東京)がていねいに聞いていた。寝たきりの女性(83)はトイレの不 安を話す。四カ月の乳飲み子を抱えた母親は、母乳が出ず粉ミルクもあと数日だと話した。「とにかく最優先で調達を!」南條嘉宏医師(東京)が、市職員に要 請する。
 二五〇〇人が避難した多賀城文化センターは、居場所の確保もままならないほどの混みようだった。このセンターの五〇〇メートル先まで浸水したそう。診療 スペースができると人が押し寄せた。二時間半で五二人を診た帰り際、「倒れた人がいる」と大声。三〇代女性がパニック発作を起こしていた。
(井ノ口記者のメモより)


 近隣の医療機関のほとんどが、被災や人手が足りずに機能停止する中、坂総合病 院は患者の受け入れと、塩竃・多賀城両市の避難所の医療を託され、活動しました。悪路を走り抜いて全国から続ぞく到着する支援の民医連職員と、薬剤や食料 などの物資がこれを可能にしました。震災発生から三月三〇日までに現地に入った職員は、実数で一一〇〇人超。
 坂総合病院は三月二三日から通常診療を再開、四月から全日本民医連の支援も長期的な体制に切り替えます。岩手の被害の甚大な無医地域や、原発事故の三重の被害を受けた福島への支援も始めています。

(民医連新聞 第1497号 2011年4月4日)

リング1この記事を見た人はこんな記事も見ています。


お役立コンテンツ

▲ページTOPへ