医療・福祉関係者のみなさま

2011年3月7日

めざした原点語り合う 第22回青年医師交流集会in草津

 「医師をめざした原点~地域で輝く医師をめざして温泉で語り合おう」。全日本民医連は二月一〇~一二日、群馬県で第二二回青年医 師交流集会を開き、二三〇人が参加しました。講演とパネルディスカッション、栗生楽泉園(ハンセン病回復者療養施設)の見学、小グループ討論(SGD)な ど盛りだくさんの企画で交流しました。(小林裕子記者)

 参加した医師の内訳は一~二年目の初期研修医が一二四人、三年目以上が六四人。後期研修を どこで行うか検討中の医師もいました。目標は(1)全国の仲間と交流し、思いを分かち合う、(2)身近なロールモデルを探す、(3)地域で自分が果たす役 割を考える、の三つ。「同期の仲間、先輩と久びさに会えた」「奨学生のつどいで知り合った先生に会えた」など旧交を温め、励まし合う場にもなりました。
 記念講演は尾藤誠司さん(東京医療センター臨床研修科医長)。『医師アタマとの付き合い方』などの著書で、医師・患者間のコミュニケーションで現代的な 視点を提示しています。演題は「もはやヒポクラテスではいられない」時代の医療専門職・医師像について。ヒポクラテスや「赤ひげ」に象徴されるパターナリ ズムからの「脱却」がテーマでした。自身が「めざす医師像」を追い求めたプロセスを話し、参加者に、「『患者のための医療』と『患者の立場に立つ医療』の 違いは何?」などの質問を投げかけながらすすめました。
 「自然科学の使徒」である医師が、「さまざまな背景と価値観」をもつ患者との「同意」によって治療をすすめることが求められる現代。医師に「心の鎧を脱 いで、わかったつもりにならず、揺らぎの中から生まれる変化を恐れず、患者とともに成長しながら、新しいモデルをつくっていこう」と提案しました。

率直な思い出し合う

 SGDでは「学生のとき考えていた医師像を思い返した」「毎日、患者の対応に必死で、こんな医師になりたいと考える機会がなかった」「患者の立場に立つのは本当に難しい」など初心に帰って語り合いました。
 研修については、一年目医師の「研修は楽しい。充実している」という声のほか、「進路で悩んでいる」という率直な声も出されました。

雪の中ハンセン病施設見学

 二日目は大雪の中、草津の栗生楽泉園へ。詩人でハンセン病国賠訴訟の元原告・谺雄二さんの講演を聞きました(別項)。 その後、凍える寒さの中「ハンセン病訴訟を支援し、ともに生きる会」会員のガイドで、重監房跡や居住施設、慰霊所、焼け残った遺骨を捨てた地獄谷などを見 学。重監房は正式な裁判もないまま収監された患者が、過酷な懲罰に苦しみ命を落とした場所です。らい菌は身体の冷たい部分の末梢神経を侵すため、冬の強制 労働で症状を悪化させ、手足の指を失ったり、重い後遺症を負った患者が多かったという説明が身に沁(し)みました。
 最終日のパネルディスカッション「医師をめざした原点」では四人の医師が発言しました(下段)。
 参加の感想は多くが「満足」。とくに谺さんの講演に「人権を取り戻すために活動し続ける精神力に驚いた」「人権について考えさせられた」と記していまし た。集会全体に「貴重な体験」「無理をして来た価値があった」の声がありました。
 守谷能和実行委員長は「たくさんの医師が忙しい中を集まって、励まし合う機会になった。悩みが共通だったり、思いを共有できたことで、『もう少しがん ばってみる』と言う人もいた。今後の診療活動の力になると思う」と語りました。


パネルディスカッションから

長崎・五島ふれあい診療所長
鈴木ますみさん(〇四年卒)

 鹿児島生協病院で初期研修を行い、女性外来の開設、生活習慣病改善プログラムに携わった。大阪、東京など五つの診療所で研修し、七年目に所長に就任。辛 かった時期の先輩医師の励ましが心に残る。ドロシー・ロー・ホルトの詩「子ども」にあるように、自分も大事にされたと思う。医師として心・体・頭のバラン スを取ることが大事。めざす医師像は「住民が健康で楽しく生きるためのお手伝い」。自分の希望と現場のニーズの融合点を考えてみたい。

長野中央病院消化器内科
太島丈洋さん(○三年卒)

 当院では一年半の研修で胃カメラの即戦力となる医師を育てている。内視鏡の面白さに開眼し、医長にロールモデルを見いだした。大学へ専門研修に出た後、 内視鏡的粘膜切除術や大腸ESDにまい進。めざすのは「まっとうな医師」。それは「正しく診断し、治療する。高いレベルでの遂行を追求し、患者の篤い信頼 が得られる」医師。民医連の医師は腕は一流で、患者や地域への優しい眼差しをもち、医療変革を志す。そのような医師を集め、育てられる組織をつくることが 目標だ。

千葉・船橋二和病院産婦人科
鎌田美保さん(○五年卒)

 高校生のころ「薬害エイズ訴訟を支える会」に入り、「患者の立場を守れる」医師になろうと決意。民医連の学生実習で「患者のためにスタッフ全員で実践す る」姿に触れ就職。初期研修では、患者にじっくり向き合う姿勢を学ぶ。「地域のお産を守りたい」と産婦人科医になり、埼玉協同病院などで研修した。いま妊 産婦のキラキラした眼、母になって酒もタバコも止めたなど、人間の可能性に目を見張る日々だ。めざす像は「日々の医療の中で見失ってしまいがちな困ってい る人に、手を差し伸べられる医療者」。学術活動などにとりくみ後輩を育てたい。

全日本民医連副会長
堀毛清史さん(北海道勤医協理事長)

 地域で「生活・労働と病気の関係」を研究テーマにしてきた。若年性心筋梗塞八例を検討し、要因が「一日一〇時間を超える労働+喫煙+仕事のストレス」と 突き止めた。もみじ台団地(エレベーターがない)の上階に住む在宅酸素の患者の訴えから、階段昇降の酸素負荷を測定し、「命が危ない」と階下への転居を行 政に訴えた。医師の役割は「医療および保健指導によって憲法二五条を実現すること」。これは「人権を守る」「患者との共同の営みの医療」という綱領の精神 に通じる。民医連だけの課題ではないが「たかが民医連、されど民医連」。役割は大きいと思う。患者の話を聞く医師になろう。診察の最後に「何か困っている ことはありませんか」と問いかけて。


ハンセン病国賠訴訟元原告

谺(こだま) 雄二さん講演

ここを「人権のふるさと」に

 ハンセン病は一八七三年に病菌が発見され、感染力の弱い慢性病と知られ、ヨーロッパでは偏 見が解かれ始めていました。しかし、日本では天皇制の下、「業病」「天刑病」「国辱病」と呼ばれ、隔離政策が取られました(一九〇七年)。患者は家族と離 され、手錠と腰縄という犯罪者扱いで療養所に強制収容され、強制労働させられました。軽症患者が重症者の介護や洗濯、薪づくり、畑仕事などをしていたので す。医師の光田健輔が所長(岡山・長島愛生園)になると、国から「患者懲戒検束権」を得て反抗する患者を監房に入れ、断種・堕胎を開始。一五年戦争が始 まった一九三一年には「らい予防法」による隔離撲滅政策が強まりました。ここ栗生楽泉園には特別病室(重監房)がつくられ、「草津送り」が患者を脅す言葉 でした。重監房に九三人が入れられ二二人が死亡しました。
 戦後も「らい予防法」が居座り続けました。私たちは重監房の撤廃や待遇改善、治療薬プロミンの獲得、「らい予防法」の改正を求め運動しました。戦後すぐ に始めた不屈の運動で、九六年にようやく廃止されました。しかも、菅直人厚生大臣(当時)が謝ったのは「法見直しの遅れ」だけ。隔離撲滅政策への反省があ りません。
 私たちは「ハンセン病違憲国賠訴訟」に踏み切りました。人間回復のたたかいでした。勝利し、わずかに前進しました。いま全国の入所者は二四〇〇人、平均年齢は八一歳です。
 患者の人権を奪った「ハンセン病政策」。これは戦争政策と深くつながっています。また、医師のパターナリズムとも関係します。患者(子ども)は所長 (父=医師)の言うことを聞け、そして「見捨てられたお前たちは助け合え」と。療養所には世を欺く楽園めいた名前が付き(多磨全生園、沖縄愛楽園、長島愛 生園など)、世の中と切り離されました。
 差別の中で、患者の家族も肩身が狭く、離別を強制されました。患者運動の中で家族会がないのはハンセン病だけ。もう家族のもとへ帰れません。私たちはこ の場所で名誉回復をしたい。ここを「人権のふるさと」にしたい。施設を開放して、ハンセン病を通して人権を学んだり、使ったりする構想をもって、重監房を 復元する運動もしています。今日のように二三〇人もお医者さんたちが来てくれてうれしい。
 私は「どう生きていけばよいか」と考える中で、「人権とは何か」という問題にぶち当たりました。悩み苦しみ続けましたが、「人権が社会にとって大切なも のだ」と知って、自分の体験を通じて社会に伝えたいと思うようになりました。せっかく「らい」に罹ったのだから。生きていてよかった、と言えるように、こ のたたかいを成就したい。この思いをみなさんに伝えたいのです。

(民医連新聞 第1495号 2011年3月7日)

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