民医連新聞

2006年7月17日

宮崎民医連が誕生 全日本民医連は45県連に 地域に根ざし、患者さんを守る砦

 民医連に四五番目の県連が誕生しました。宮崎民医連が鹿児島民医連から独立しました。これは一九九七年の滋賀民医連誕生以来、九年ぶりで す。六月二四~二五日、小雨が降る宮崎市内で行われた結成式とレセプションには、職員と共同組織の方がたの笑顔があふれました。(横山健記者)

 開会のあいさつで、宮崎医療生協理事長の中村育夫医師は、「鹿児島から分離することにメリットはあるのか、を何年も議論してきました。そして、独立した県連として巣立たなければ、宮崎で民医連の発展はないという結論になりました」と、のべました。

 鹿児島民医連会長の税所(さいしょ)孝樹医師は、「ともに南日本をささえ、がんばろう」と激励。九州・沖縄地協の各県連が「困難なこの時期、全国の仲間に元気を与える」と喜びのメッセージを寄せました。

住民と歩んで

 一九七五年、「病気になったとき気軽に相談できる医療機関を宮崎に」、住民の願いを受け、民主診療所設立準備会が結成されました。そして翌年一〇月、宮崎共立診療所が完成しました。

 八四年、診療所を宮崎共立病院(二五床)にして、医療法人共愛会を結成しました。九〇年に医療生協に組織変更し、病院名も宮崎生協病院に改称しました。

 現在、宮崎生協病院(一二〇床)をセンターに、クリニック三カ所、訪問看護ステーション二カ所、ヘルパーステーション二カ所、職員数二八〇人まで成長しました。組合員数も約三万六〇〇〇人に拡大しました。

 四年前から始まった「鹿児島民医連独立会議」。宮崎が独立する上で一番の問題になったのは医師問題でした。独立後、宮崎民医連の医師数は一七人になります。これから五年をかけて、鹿児島・宮崎の統一医師団を分離し、医師派遣や研修システムなども見直していく予定です。

新たな決意で

 総会では、宮崎医療生協の前身・共愛会の理事長をしていた弁護士の鍬田萬喜雄さんが発言。「本当に待ちに待っ た。当時は医師が一人しかおらず、公害検診もできなかった」。七一年にヒ素公害が起きたとき、宮崎に診てくれる病院がなく、岡山大学まで行って検診を受け てもらうという、悔しい思いをしました。

 記念講演を行った肥田泰全日本民医連会長は、「全国の教訓に学んで存在感のある県連に」と激励しました。

 新県連の運動方針について、各事業所から決意や期待の発言がありました。和知川原生協クリニック事務長の内村浩三さんは、「医療改悪で、食事代が払えないという入院患者さんが出はじめました。全事業所で患者さんを守る運動をつくろう」とのべました。

 宮崎生協病院・看護師の小牟田佐知子さんは、「7:1の届け出ができるかどうかは、看護師確保にかかっている。 大学病院なども看護学校訪問を強化し、看護師確保にやっきになっている。医療改悪に反対する署名や宣伝を強めよう。看護を、光を受けて輝く月から、自ら輝 く太陽にしたい」と語りました。

 結成総会では、基本方針などを決め、第一期の役員選出が行なわれました(左)。会長に就任した末岡常昌医師は、 「後継者としての医師対策は重要です。そのためにも『自ら考える』主体的な職場づくり、職員育成をしたい。大いに議論し、組織を守る、職員を守る二年間に したい」と、抱負を語りました。


 

宮崎民医連

理念

 人の命に差別があってはならない

基本方針

 1.人権を尊重し、患者の権利を守ります

 2.医学の成果に学び、医療と福祉の質の向上に努めます

 3.科学性とヒューマニズムにあふれる民主的な職員集団をめざします

 4.平和憲法を守り、戦争に反対します

 5.これらの方針を地域の人びとと協同してすすめます

役員体制 

会長 末岡 常昌 医師
副会長 日高 明義 医師
関  良二 医師
長住 和哉 事務
事務局長 松田 俊夫 事務
理事 遠藤  豊 医師
山岡伊智子 医師
児玉チトシ 看護師
小牟田佐知子 看護師
仁田脇弘文 放射線技師
大田原良治 事務
小牟田 貫 事務
白石 敏夫 事務
茄子田恒平 事務
会計監査 大西 宏幸 事務
長友 則子 事務

(民医連新聞 第1384号 2006年7月17日)

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