民医連新聞

2008年5月5日

中国侵略の爪あと深く 旧日本軍が捨てた毒ガス被害 民医連医師 現地で検診

 中国に旧日本軍が遺棄した毒ガス液は約三〇〇〇トン。労働者や子どもたちが知らずに触れ、健康被害に苦しんでいます。中国内に被 害者は二〇〇〇人以上もいるといわれています。三月二七~三一日、中国黒龍江(こくりゅうこう)省ハルピン市の医科大学付属病院で「毒ガス被害者検診」が 行なわれ、民医連の医師が奮闘しました。化学兵器CAREみらい基金の要請で、現地での検診は二回目です。毒ガスは六〇年以上たっても猛毒のまま、一度触 れると体をむしばみ続ける非人道的な兵器です。撤去や被害者補償を怠る日本政府の責任は重大です。(板東由起記者)

破壊された健康と生活

大阪民医連 志形 学(事務)

 検診にあたったのは東京の藤井正實医師、大阪の橘田亜由美医師、鈴木昇平医師、緑川大介医師です。民医連の職員七人は、日本でチチハル事件(*)の支援をする弁護士や現地コーディネーターとともに、調査団一六人で訪中しました。
 前回の検診は呼吸器や眼科、皮膚科、耳鼻科の診察が中心でした。今回は毒ガスが神経症状に与える影響を調べ、今後の治療ケアについて考えることが目的です。
 一二歳の少年は、川で遊んでいる時に毒ガスの入った砲弾を見つけました。足に毒液がかかってしまい、翌日、水泡が出始めたそうです。少年は「近くに治療 できる病院はない。衛生所で消毒している」と話しました。被害後は激しい運動をすると呼吸が苦しくなり、好きだった体育の授業も休みがちになりました。
 ショベルカーを運転していた三〇歳の男性は、毒ガス入りのドラム缶を掘り起こしてしまい、被害にあいました。その後、目の障害や体のだるさで、仕事を続 けることができなくなりました。いまは姉からの仕送りで、なんとか生活しています。
 「毒ガス症状は感染する」という誤ったうわさがあるために、付き合っていた女性と別れざるを得ませんでした。男性は「周りから避けられ、誰も話をしてくれないことが一番辛い」と、話しました。
 今回、検診を受けた三八人全員が「疲れやすい」と訴えました。診察した医師たちは「疲れやすさは、精神的なものからきているという感じではなかった」 「発汗異常を訴える人が多い」「高次機能障害の可能性がある」などの意見を出し合いました。

進行性で治らない

 ほとんどの被害者が仕事につけず、収入がありません。毒ガスの被害は進行性で完治することはなく、医療費の負担がずっしりとのしかかり、生活も苦しい状況です。
 現在も、中国に最低四〇万発の化学兵器弾が残されていることを日本政府は認めています。しかし被害者に対して、謝罪も継続的な治療と生活できる補償もしていません。
 戦後六〇年以上の月日が経過していますが、戦争が残した爪あとの大きさを知りました。戦争が終わった後でも、被害が続いているのです。中国各地の毒ガス 被害にあった人たちに対する継続的な医療ケアの体制をつくりあげていくことが、今後の日中関係の改善に重要だと感じました。

(*)チチハル事件…二 〇〇三年八月四日、中国・チチハル市内の団地の地下駐車場建設現場から、五つのドラム缶が掘り出されました。ドラム缶には旧日本軍が遺棄した毒ガス液(イ ペリットとルイサイト)が入っていました。この毒ガス入りドラム缶は廃品回収所や化学工場に運ばれ、汚染した土は中学校の校庭などを整地するために使われ ました。ドラム缶を解体した作業員、校庭に運ばれた土に触った子どもなど、四四人(死者一人含む)が被害にあいました。
その後も、広東省や吉林省などで被害があい次いでいます。


一刻も早い治療を

耳原総合病院 鈴木昇平(医師)

 問診と診察にはひとり三〇分以上かかり、三つの診察場で全員の評価を終えるにはぎりぎりの日程でした。
 症状はさまざまで、現地の評価だけでは詳細な病態を推定することは困難でした。今後も検診を継続していくことが病態の解明のために必要だと思います。今 年六月、裁判のため一部の被害者が来日します。その機会を利用して、より詳細な検査をすすめる予定です。
 日本であれば、たとえ診断がつかなくとも診断的治療を考えて、適当と思われる薬剤を投与して介入ができるのですが、ハルピンではそれがかなわず、もどか しく思いました。病態を解明し、中国の医師にも理解を得て、一刻も早く被害者の治療を開始することが必要です。

「政府は謝罪と補償を」

チチハル被害者証言集会

 チチハル事件被害者と遺族計四八人が日本政府に損害賠償を求めている「遺棄化学兵器チチハル事件訴訟」の第四回口頭弁論が三月一〇日、東京地裁で開かれました。
 終了後の被害者証言集会で原告の牛海英(ニウハイイン)さん(30)は、「事故後、顔が腫れあがり、毒ガスが付着した腹部の皮膚はただれた。あまりの痛 みで、自殺を何度も考えた」と、泣きながら話しました。よく風邪をひき、薬を何種類も飲む毎日です。
 牛さんたち被害者は、新たな被害を生まないために日本政府に対し、遺棄毒ガス兵器の一刻も早い撤去、真摯な謝罪、安心して毎日をおくれるよう生活支援と医療保障を強く求めました。
 原告弁護団は、事故を生じさせた国の責任を追及しましたが、国は事故現場の毒ガスが旧日本軍のものと認めつつも、「地下に埋設されていたため、仮に国が 調査しても遺棄した場所は特定できず、事故は回避できなかった」と、責任を否定しています。

「毒ガス捨てた」 証言

 証言集会には戦時中、広島県大久野島で毒ガス製造に携わった藤本安馬さん(82)が参加してい ました。藤本さんは一九四一年、「給料をもらいながら勉強できる」と聞き、経済的に苦しかった家族のために大久野島に行きました。毒ガスをつくらされると は思ってもいませんでした。毒ガス工場で働いた後遺症で気管支炎になり、現在も咳や痰に苦しみ、薬を飲み続けています。
 藤本さんは「私は犯罪人です。いくら謝っても謝りきれない。気が休まることのない日々です。三〇〇〇トンも中国に遺棄した政府は、加害者として責任をと るべき。いま、毒ガスをつくらされた時代と似かよった時代です。政府は再び、戦争する国にしようとしているが、すべきことが違う。被害者を救う援護法をつ くるべきです。私にできることは毒ガスをつくった事実と、今も毒ガスは残っていることを証言し続け、被害者といっしょにたたかうこと」と、話しました。

中国各地に散在、日本にも

 二〇〇〇年ごろから、茨城県で手足のしびれを訴える人が出始めました。保健所が井戸水を調べると、基準値の三三〇〇倍のヒ素が検出されました。このヒ素を分析すると、旧日本軍が毒ガスの原料に使っていた物質だったことがわかりました。
 二〇〇二年、神奈川県の道路工事の現場から、毒ガス入りのガラスビンが発見されました。割れたビンから毒ガスが流れ出し、それを吸い込んだ作業員は頭痛 を感じたり、発疹がでました。これは旧日本軍が敵にむかって手で投げる手投げビンで、割れると毒ガスが飛び散ります。
 敗戦時に国内にあった化学兵器が一四の都道府県で発見され、一〇〇人以上が体調不良を訴えています。

日本の責任で処理を

 国連で「化学兵器禁止条約」が一九九二年に採択され、一九九七年に発効しました。この条約は「発効から一〇年以内(二〇〇七年まで)に、いま持っている化学兵器、製造施設を廃棄すること。外国に残した化学兵器もすべて廃棄すること」を義務づけました。
 この条約を受けて一九九九年七月、日本政府は中国政府と処理する場所や対象、スケジュール、環境、安全問題などを話し合い、二〇〇〇年から処理事業を始めました。
 しかし、期日の二〇〇七年四月までに作業を終えることはできず、日本政府は中国政府と話し合い、完了を二〇一二年四月までに延期しました。すべてを特定 することは困難かもしれません。しかし、関係者が生存しているうちに証言をとるなど、十分な手をつくすことが、日本政府に求められています。

(民医連新聞 第1427号 2008年5月5日)

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