憲法を守ろう

2005年8月1日

被爆60年 本当の平和が来るまで 「被爆者の戦争は終わらない」

 六〇年経ったいまも、終わらない被爆者の苦しみ。それなのに国は、被爆者医療を制限し、憲法九条 を変えようとするなど、被爆者の心を逆なでしています。長崎では県をあげて「爆心地から離れた地点で被爆した人も救済を」と運動し、被爆地の指定をひろげ てきました。しかしこの六月、国はそれをひっくり返す改悪を押しつけてきました。被爆者の怒りの声を、青年職員、医学生とともに聴きました。(荒井正和記 者)

 入市被爆者・峰松巳さんは、長崎健康友の会の会員です。「被爆地域拡大連絡会」の代表世話人として、被爆者救済 を国に求める先頭に立ってきました。水田智美さんは長崎・香焼(こうやぎ)民主診療所の看護師、外来で被爆患者さんに日々接しています。領家(りょうけ) 由希さんは長崎大学医学部の三年生で、東京生まれ。二人とも、ここ長崎では、被爆者の気持ちを知らなくては患者さんを本当に理解できないのでは、と考えて います。

 峰さんは一九四五年八月、福岡の航空隊に所属していました。長崎に新型爆弾が落ちたと聞き、ただちに諫(いさ)早(はや)航空隊に派遣されました。一五日になり、郷里の長崎まで歩いて帰りました。

 市街に入ると県庁は焼け落ち、焼け野原の浦上は、まだくすぶっていました。家は爆心地から約一〇㌔㍍のところにあり、五人の妹、弟は防空壕の前で被爆しました。

 妻の妹は、爆心地近くの女学校で被爆。翌日探しに行った家族が連れ帰る途中で、亡くなりました。「妻は今も思い出すと気持ちが動揺するんですよ」と言う峰さんの目に涙がにじみました。

被爆者医療を元に戻せ

 今回の改悪で、今までの「被爆体験者医療受給者証」は無効になりました。あらたに受給者証の交付を受けるには、スクリーニング検査を受けなければなりません。

 峰さんは、「スクリーニングで落とされた、という被爆者が何人もいる」と怒ります。四歳で被爆した人に、「当時 のことを覚えていますか、いませんか」などと次つぎに質問。覚えてなくて当然です。返答に困った被爆者に、後日「該当しません」と通知するようなやり方で す。その人は「三日間ご飯が食べられなかった」と、峰さんに泣いて訴えました。

 水田さんは最近、外来の受診を減らしている被爆者がいると感じていました。改悪で医療費をいったん窓口で支払わなければならない償還払いになったからです。

 峰さんたちは地域で集会を開き、改悪を止めるよう、市長や県知事に申し入れ、厚生労働省とも交渉。市議会は全会一致で、改定前に戻す決議を採択しました。

被爆者の運動を無にする

 「被爆者は国が起こした戦争の被害者です。だからこそ、国の責任で被爆者の保健、医療、福祉の総合的な施策を講じる被爆者援護法が制定されました。制度改悪は被爆者の長年の運動を無にするもの」と峰さん。

 「六〇年経っても被爆者にとって戦争は終わっていない。国が原爆による健康被害を償い、被爆地域を制限せず認 め、平和憲法が守られてはじめて、戦争が終ったといえる。この思いを若者に分かってほしい。そして核兵器をなくし、被爆者を救うために力を貸してもらいた い。でないと死んでも死にきれない」、青年に向ける言葉に力がこもりました。

*   *

 二人の女性は、峰さんたち被爆者の願いをしっかり受け止めました。

 水田さんは、「地域で暮らす被爆者をささえたい。医療知識だけでなく、平和や被爆についても知らないと。民医連の職員だから」。

 領家さんも、「国が責任を負わず、被爆者を痛めつけるのは許せない。患者さんから頼りにされる医師になるには政治や社会も考えなくちゃ」と。

(民医連新聞 第1361号 2005年8月1日)

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