特集 震災から5年 福島の病院は いま
2011年3月11日の東日本大震災から5年が経ちました。福島第一原発の放射能漏れ事故が起きた福島県では、いまだに10万人が避難生活を余儀なくされています。福島県内の民医連の3病院は、震災直後から全国支援も受けつつ必死に医療体制を維持してきました。あの日から始まった3病院の5年間を追います。
わたり病院 聞こえてきた笑い声 史上初、研修医5人体制に
福島市の医療生協わたり病院(一九六床)は、福島県民医連唯一の基幹型臨床研修病院※。原発事故の影響で特に医師不足が続く福島で、後継者育成も大切な役割です。
この三月、嬉しいニュースが。初期研修を終えた国井綾医師が、わたり病院を後期研修先に選んだのです。同院で後期研修医が誕生するのは実に一〇数年ぶりのこと。「医局から笑い声が聞こえるようになった」と遠藤剛院長。若い力で院内に活気がみなぎっています。
患者の要望に応えて
わたり病院は震災後、患者の要望に応えて組織を改編。県北初の緩和ケア病棟(一五床)をオープンし、高齢化がすすむ地域の実情に合わせて回復期リハビリ病棟を五七床に増床しました。
朝礼を病棟・外来全体に広げたり、入院時のカンファランスを始めるなど集団的な医療体制も構築。「震災後、看護師体制が厳しい中で職員のやりくりができました。情報や問題点を共有することで、職員のモチベーションアップにもつながりました」と、同院総看護長の荒井史子さん。
また、研修医を支えようとメンター(援助者)として若手とベテランの看護師を配置。荒井さんは「研修医と職員が互いに刺激し合い、院内の風通しが良くなりました」と振り返ります。
総合診療医の道へ
こうした地道な努力が実り、国井医師に続き、昨年四月には初期研修医三人が入職。今年四月にも一人が入職する予定で、新年度はわたり病院始まって以来の研修医五人体制になります。
もとは小児科を希望していた国井医師ですが、同院で初期研修を重ねるうち、総合診療医の道にすすもうと決意しました。「ソーシャルワーカーら多職種と協力して、患者さんのふだんの生活の様子を把握するように努めました。総合診療を通して、さまざまな困難を抱えた患者さんとかかわりたい」と国井医師。
総合診療はわたり病院でも特に力を入れている分野。民医連らしい魅力にあふれた病院だからこそ、後期研修先に選んだのです。
昨年四月に入職した木村純医師は「わたり病院を選んだポイントは、地域に根ざした医療活動。他病院で研修している友人に聞いても、より実践的な研修内容で勉強になります」と言います。
木村医師は福島県南部の矢祭町出身。東京の大学出身ですが、あえて福島の病院を選びました。「原発事故があったからこそ、地元の復興に貢献したいと思いました」。
支援が学びの場に
わたり病院のある福島市渡利地区は、比較的放射線量の高い地域です。震災後は不安で夜も眠れない病棟患者がいました。「ナースステーションで患者さんの話を聞くこともありました。何も話さなくても、黙ったままそばにいることもありました」と荒井さん。民医連の“患者に寄り添う”医療を実践してきたのです。
震災直後は中堅職員が相次いで退職。日常診療の維持が困難になりましたが、全国の民医連事業所から医師、看護師、リハビリ職員が支援に入りました。
荒井さんは「感染症対策など、全国の看護師からさまざまなとりくみを聞くことができました。支援は大きな励ましになるとともに、学びの場にもなりました」と振り返ります。
職員の体制はまだまだ厳しいものの、全国からの医師支援は昨年一〇月で終了。同院は支援に感謝するDVDレターをつくり、全国の事業所に郵送する予定です。
より地域に密着した病院へ
震災から五年を経ても原発事故は収束せず、住民の不安は続いています。同院は放射線の学習会を繰り返し開き、放射能を「正しく恐れる」ことを心がけてきました。また、院内に内部被曝を測定するホールボディカウンターを設置し、市の委託で住民の放射線量を測っています。
医師養成の分野では、福島県民医連の医師委員会を再建し、委員長には遠藤院長が就任。福島市医師会を中心に、市内の基幹型臨床研修病院(福島赤十字病院、大原綜合病院、わたり病院)の連携を強める「NOWプロジェクト」(NOWは日赤、大原、わたりの頭文字)も始まりました。
遠藤院長は民医連の理念である“無差別平等の地域包括ケア”を掲げ、リハビリと在宅医療を強化、より地域に密着した中小病院としての展開を見すえます。「住民が安心してこの地に住み続けられるよう、今後も病院機能を強化していきたい」と抱負を語りました。
文・新井健治(編集部) 写真・酒井猛
桑野協立病院 私たちが発信し続ける “核害”伝えるニュース1000号に
桑野協立病院(郡山市、一二〇床)の坪井正夫院長は、原発事故を「核害」だと言います。郡山医療生協は二〇一二年に「核害対策室くわの」を立ち上げ、室長の坪井院長が発行する「核害対策室くわのニュース」は昨年一〇月に一〇〇〇号を越えました。核害の街に生き、核害に立ち向かった五年間でした。
混乱のなかで
「揺れが強くて動けない中で、寝たきりの患者さんを励ましていた時、患者さんが私の手を払いのけるんです。『自分を置いて逃げろ』って。『そんなことはできない』と言ってそばにいました」と話すのは震災当時、病棟の看護師長だった石井智子さん。経験したことのない揺れで立っているのもやっとというなか、すぐに患者の安全確認に走りました。
揺れがおさまるとすぐに職員が集まり、対策本部が立ちあがりました。坪井院長は「避難は行政の指示に従う。それまではここで医療を続ける」と職員に説明し、患者を受け入れ続けました。
震災直後、郡山市では電気は通っていたので、テレビで原発事故のことを知りました。長谷川修一さん(事務)は「郡山市は原発から七〇キロと距離があるから、逃げたらいいのかもわからず、街はひっそりとしていました。そのうち原発の近くに住む人たちがどんどん郡山市に避難してきて、まるで自分の国ではないようなことがずっと続いていました」と当時を振り返ります。
自分たちがやらなければ
皆さん「原発事故後は情報がなくて不安だった」と言います。坪井院長は情報を得ようと毎日地元紙の「福島民報」と「福島民友」を見ていましたが、原発に関する情報は得られませんでした。「現地の人が発信しなかったら誰も発信しない。発信する人がいないなら、自分たちが発信していかなければ」と、毎日「核害対策室くわのニュース」を発行し続けています。
情報を得るために、FTF(ファースト・トラック・ファイバー)や食品放射能スクリーニングモニター、空間線量計を購入して独自に体内や食品、市内の放射線量を測定。放射線量測定に関わる郡山医療生協組合員の岡本鉄蔵さんは「私たち市民は何も知らされなかった。行政が言うことは素人目に見ても変だと思った」と、言います。坪井院長は「原発事故の被害の全容はいまだにわかっていない。記憶が薄れていく中で、証明できるのは数値だけ。だから、とにかくいろんなものを測るんです」と話します。
ニュースの役割
ニュースには原発事故に関する情報だけでなく、全国から届く支援物資や医療生協の活動も載せました。
民医連の郡山西部地域包括支援センターの白石好美さんは、二〇一三年一月から毎月一回、借り上げ住宅で暮らす人たちが集まる茶話会「ぼたんの会」を運営しています。「立ち上げ当初は避難者の大変な生活の話をたくさん聞きました。だけど、最近は皆さん『避難者であることを知られたくない』と言います。地域で避難者だと知られると『あんたたちはいいね、賠償金がもらえて』と傷つく言葉をかけられるからだそうです。このままではますます地域の中で孤立してしまうのでは」と白石さん。「避難者の思いを発信するのが自分たちの役割」と、「ぼたんの会」の様子は必ずニュースに載せています。
ニュースを発信する一方で、全国からの声に気づかされることもあります。同医療生協には、現在も野菜や果物などの支援物資が届きます。「いつも支援物資といっしょにメッセージが送られてくるんです。問題意識が薄れていくなかで、『私たちは忘れません、がんばってください』と言われるとハッとさせられる。運動を続けていかなければと思います」と冒頭の石井さん。全国から寄せられたたくさんのメッセージを見せてくれました。
何十年も続く活動
郡山医療生協は新たなとりくみを始めています。検査技師の山田明美さんは震災当日、子どもの中学校の卒業式でした。「生徒は半分くらいになったけれど、私たちは『ここでがんばっていこう』と決めました」と山田さん。
自分にできることをと、桑野協立病院が県民健康管理調査で甲状腺エコー検査の拠点医療機関になるため、福島県が実施している認定試験を受けて合格。その後も検査技師と放射線技師が二人合格し、同院は拠点医療機関の指定を受けました。現在は調査の実施に向けて、福島県立医科大学との契約をすすめています。
同院事務次長の鹿又達治さんは「チェルノブイリでも当時子どもだった人が大人になって、甲状腺がんを発症している。(甲状腺の検査は)福島でも今後何十年と続く活動になっていくと思います。また、原発事故によって医師不足、介護職員不足が一層深刻になっていて、これから地域医療をどう守っていくかが大きな課題です。こうした課題を突破するためにも、情報を発信し続けてつながりをつくっていかなければ」と話します。
文・寺田希望(編集部) 写真・野田雅也
小名浜生協病院 ここに来て、ここを見て 被災地視察を受け入れ続けて
いわき市の小名浜生協病院(一二九床)は、被災地視察の窓口です。これまで全国から民医連事業所など一二〇件を越える視察を受け入れてきました。震災から今日までの歩みを聞きました。
ありのままを見て欲しい
いわき市は交通の便の良さから、被災地視察の入口となっています。病院は震災の四カ月後から、全国の民医連事業所や諸団体の視察の窓口を続けています。「基本的に断らない」方針のもと、月二回の土日に、複数の職員が丸一日かけていわき市から楢葉町や大熊町などを通り、浪江町まで海岸線を北上して見学するルートの案内を務めています。
情報を発信しようと思ったのは、多くのメディアが原発事故のことを報道しなくなってきたことに、事故が風化してしまう危機感を覚えたから。何より実際に被災地を見れば意識が変わるのでは、と考えました。
「道一本隔てて立ち入り禁止区域かどうかが分かれる場所、津波で壊れたまま残っている家屋、こういうことは何回聞くよりも実際に見た方が早い。今回の事故はたまたま福島で起きたけど、全国どこでも起こりうること」と小名浜生協病院事務長の國井勝義さんは話します。
残るつらさ、逃げるつらさ
「今でこそ当時の判断は正しかったと言えるけど、原子炉が二度と爆発しない保障なんてなかった。もしまた爆発事故が起きたら、そういう不安がいつもありました」と話す國井さん。
原発事故直後の二〇一一年三月一五日、病院のあるいわき市が全戸に避難命令を発令。人口三四万人のうち一六万人が避難するなか、病院の職員の多くは残りました。「入院患者さんを残して避難できない」――。それが共通の思いでした。
入院患者さん全員を市外の病院に搬送する手段も、受け入れ先の当てもない現実を前に、患者を守るためには病院の医療体制を維持するしかありません。命の危険と背中合わせのなか、職員に残ってもらうしかありませんでした。
「病院職員である前に人間、逃げる権利は医療従事者にもあると思いながら、職員に『残ってほしい』と言いました。『残れ』とは、とても言えませんでした」。國井さんは目を潤ませて話します。
家族や親しい人が避難するなか“残る”と判断するのも、そう判断した同僚を残して“避難する”と判断するのもつらさがあります。心のケアにと個人面接や放射線専門医の講義などもしましたが、最も支えになったのは各職場の職責者だったと言います。
被災者にある心の壁
震災直後は病院を続けることで精一杯でしたが、一カ月後には東京民医連の支援も受けながら、安否確認のため職員総出で津波被災地一七〇〇軒の組合員宅を訪問。二カ月が過ぎる頃には、避難所に入りリハビリスタッフによる体操や、炊きだしなどの支援を始めました。
震災の一年後、職員は組合員とともに仮設住宅でのボランティア活動を始めました。そこで、同じ被災者のなかでも境遇によるわだかまりがあることに気付きます。帰る家を失った人のなかで、原発事故による被災者には東京電力から補償金が出ますが、津波による被災者には何の補償もありません。事故以前は原発のある大熊町などの地域には国や東電から補助金が出されていたこと、一方でいわき市を含めた周辺の地域住民は原発建設反対運動をしていたことも、軋轢を作る要因となっていたのです。
容易に解決できることではありませんが、「自分の故郷に帰りたいのに帰れないという苦しみは同じ。この一点で共同しよう」と同院が所属する浜通り医療生協の伊東達也理事長は呼び掛けました。軋轢を埋めるのも医療生協の役割であると活動を続けています。
“つながり”を持ち続けて
小名浜生協病院が今日までさまざまな活動を続けてこられたのは“つながり”だと國井さんは言います。震災後の二〇一一年五月から二〇一五年三月まで、全国の民医連や医療福祉生協連から合計四〇人の看護師支援がありました。
それまで関わりがなかった民医連外の介護施設とも、物資不足のなかで食料や毛布などを分け合い、交流が生まれました。自分たちだけが日本から取り残された気持ちになったとき、全国から送られてきた激励旗やメッセージの添えられた支援物資に思わず涙がこみ上げました。
「このつながりをどこまで続けていけるか、それが課題」と國井さん。苦難をともに乗り越えてきた仲間が徐々に退職する一方、医師や看護師など技術職の入職者はいません。医療を守る苦労は今も変わりません。それでも、この地域でいのちと暮らしを守っていく。同院看護部長の天野ゆみさんは「これまでは目の前のことで精一杯だったけど、地域でどういう医療や介護ができるのか、私たちにできることをどうやっていくのかを職員みんなで考えていきたい」と語りました。
文・井口誠二(編集部) 写真・野田雅也・山本耕二
いつでも元気 2016.3 No.293