特集2 MERS(中東呼吸器症候群) 今春、韓国で大流行
無症状から重症まで、症状はさまざま
お隣の韓国で「MERS(マーズ)」という聞きなれない病気の患者さんが初めて確認されたのは、今年5月20日でした。MERS(Middle East respiratory syndrome)が流行した当初は、情報がなかなか公開されず、誤解や混乱を招く原因になりました。世界的な大企業・サムスンが擁する最先端医療機関であるサムスンソウル病院を中心に、医療従事者と入院患者・外来患者を大勢巻き込んだ院内感染が発生していたことが、あとになって判明しました。
世界保健機関(WHO)の発表(8月6日現在)によると、韓国のMERS患者は累計で186人(死者36人を含む)にのぼりましたが、7月5日以降は新たな感染者は出ていません。7月27日には隔離対象者も0人になりましたが、韓国政府は「流行が完全に終息するまで対策を継続する」と発表しています。
今回の韓国でのニュースをきっかけに「初めてMERSという感染症を知った」という方が多いかもしれません。しかしながら、MERSはもう少し前から、一部の地域ではよく知られている感染症なのです。
中東で発見
この感染症は、いつ発見されたのでしょうか。
舞台は2012年6月、中東のサウジアラビア王国ジッダに移ります。ジッダは預言者ムハンマドの出生地であり、イスラム教の発祥地・メッカの近傍に位置する大都市です。
このジッダで、重篤な呼吸器感染症で亡くなった患者さんから、見慣れない新種のウイルスが見つかりました。当初はヒトコロナウイルスと名付けられ、のちに中東呼吸器症候群コロナウイルス(MERS-CoV)と改名されるこのウイルスが、MERSの原因です。
WHOによると、ジッダで第1例が発見されてから2015年6月19日までに1338人がこのウイルスに感染、少なくとも475人(36%)が死亡したとされています。世界26カ国で見つかった感染者は、ほとんどがアラビア半島とその周辺の中東の国々です。しかし、人の行き来が非常に迅速化した現代では、ウイルスは感染者の体に潜んで、中東から遠く離れた場所まではるばる旅をします。
実際に、ヨーロッパ、アフリカ、東南および東アジアの国々でも感染者が見つかっています。アジアにおいては、韓国でのアウトブレイクは記憶に新しいですが、中国、フィリピン、タイ、マレーシアなどでも感染者が見つかっています。
どうやって感染するの?
このウイルスの起源は遺伝子解析からコウモリと考えられています。アフリカや中東のヒトコブラクダが高い確率でMERS-CoVの抗体(感染していた証拠)を保有していることも確認されています。
ウイルスはラクダの血液・鼻水・唾液・ミルク、排泄物、筋肉に潜み、これにヒトが接触することでMERSをおこすと推測されています。ただし、ラクダとの接触がないことが明らかな感染者もおり、いまだ感染経路の詳細は分かっていません。はっきりしていることは、「MERSは動物からうつる感染症」ということだけです。
日本国内には現在、ヒトコブラクダが約25頭生息しています。そのうちの20頭を検査したところ、MERS-CoVは見つからなかったことから、日本国内のラクダから感染がおきる可能性はまずないと言えるでしょう。
MERSはヒトからヒトへも感染することがわかっています。具体的には感染者の咳・くしゃみや体液(鼻汁や唾液など)に触れることで感染します。つまり感染しやすいのは医療者や長時間いっしょに過ごす家族に限られるため、空気感染するインフルエンザのほうが感染力としてはずっと高いと言えるでしょう。
感染したらどうなるの?
MERS-CoVに感染したあとも、すぐには発症しません。5~14日くらいは無症状の期間(潜伏期間)があり、その後、発熱、咳、寒気、喉の痛み、全身のだるさ、関節の痛みといったインフルエンザや風邪の時のような症状が起こります。下痢や嘔吐など胃腸炎の症状も30%以上の患者さんに見られます。重症の場合は発症1週間以内にひどい肺炎をおこし、しばしば人工呼吸器で呼吸の補助が必要になります。
感染しても無症状でまったく気づかない、あるいは軽い症状ですむ場合から、命にかかわるほど重症になる場合まで症状はさまざまです。もともと腎臓や心臓の機能が弱い方、糖尿病がある方、免疫が弱い方は重症化しやすいと考えられています。MERSによる死亡者の9割が、もともとこのような持病があったと報告されています。
診断や治療はできるの?
「中東などのMERS流行地域に渡航した」「14日以内にMERS患者、もしくはヒトコブラクダと接触した」という人が肺炎になった時にMERSを疑います。医師が都道府県にある検査機関(地方衛生研究所)に要請するとMERSのスクリーニング検査が可能です。検査結果が陽性の場合、本当にMERSなのかを確定するための、より詳しい検査を国立感染症研究所でおこないます。
MERSを治療する特効薬はありませんので、患者さん本人の免疫力を助ける対症療法が中心になります。たとえば、脱水にならないように点滴をする、呼吸が苦しければ酸素を投与する、必要なら人工呼吸管理をおこない改善するまでサポートする、などです。
どうしたら感染を防げるの?
感染予防としては、中東などの流行地域に行かないことが最大の予防になります(現時点で渡航自体が制限されているわけではありません)。
それでも仕事などで行かざるをえない場合は次のことをお勧めします。
(1)渡航前に現地の最新情報を確認
●厚生労働省検疫所 中東に渡航する方へ〈中東呼吸器症候群に関する注意〉 www.forth.go.jp/news/2014/05071434.html
●外務省 海外安全ホームページ 広域情報 www.anzen.mofa.go.jp/
●在サウジアラビア日本国大使館のホームページ www.ksa.emb-japan.go.jp/j/index.htm
(2)現地で咳やくしゃみなどの症状がある人との接触を避ける
(3)ラクダなどの動物に近づかない
(4)加熱不十分な乳製品(ラクダミルク含む)や食肉の飲食は避ける
(5)MERSに限らず、糖尿病、腎臓・肺・心臓に持病がある方、免疫が弱い方は、事前にかかりつけ医師に渡航の是非について相談する
流行地域からの帰国途中で咳や発熱に気づいたら、空港内の検疫所へ相談しましょう。帰国後14日以内に症状に気づいたら、人との接触を避け、病院に行く前に最寄りの保健所に連絡・相談をしてください。診察の際には必ずMERS流行地へ渡航したことを医師に伝えてください。そうすることで迅速な診断・対応につながります。
韓国におけるMERS問題 医療の産業化が呼んだ災い
韓国「健康権実現のための保健医療団体連合」政策委員長 禹錫均
日本には「花咲かじいさん」という昔話があると聞く。金銀財宝を無理に得ようとすれば、疫病と死を象徴するムカデやガマガエルが飛び出し、大事にすれば枯れた桜の木にも花が咲くという話だ。韓国でのMERS問題を目にし、私はこの昔話を思い浮かべた。
MERSは、ほとんどのOECD諸国では1~4人の発病者で収まっている。しかし、韓国は中東諸国でないにもかかわらず、5月から約2カ月間、感染者186人・死亡者36人、そして1万6000人を超える隔離者が発生した。結果、大規模な公衆保険の危機、さらに国家レベルの災害となった。なぜ、このような事態に至ったのだろう。
感染拡大の原因
第一に、韓国政府はまともな初期対応を取らなかった。最初の感染者が発生したソウル近郊の平沢聖母病院(京畿道平沢市)では、感染者と同じ病室にいた患者だけを隔離し、病院全体を隔離しなかった。これはWHO(世界保健機関)の「2メートル以内の患者を隔離」の規則を、韓国の過密化した病院の環境を考慮せず適用した過ちだ。病室が狭いうえ、看護師不足のため家族が患者の世話をおこなう。結局、MERS感染者は近辺の地域やソウルに広がった。最初の患者は後に30人を感染させることにつながった。
第二に、国家防疫システムから除外されているサムスン・ソウル病院が不十分な防疫措置を繰り返し、5月29日に14番目の患者が見つかっても政府は直接の防疫措置をとらなかった。6月3、4日、同病院は国に隔離者リストを渡したが、感染の拡散を食い止めるには遅すぎた。さらにリストの患者は30人だったが、リストに含まれていない患者も50人余りおり、不十分だった。韓国のナンバーワン財閥「サムスン」を国家防疫システムの聖域にしたことが、MERSを拡散させた。
第三に、政府は国民にきちんと情報を知らせなかった。英国やドイツでは、MERS患者が確認された時点で病院名を公開したが、韓国では確認から18日後の6月7日に公開した。情報公開が遅れた理由について、大統領府は「医療産業における被害を懸念したためだ」と言い、保健福祉部長官は「被害や混乱を避けるため」とした。しかし、情報公開が遅れ、被害や混乱はさらに大きくなった。病院の被害を減らそうとしたため、国民が命を落とし恐怖が全国に広まったのだ。
医療産業化政策がもたらすもの
MERSが国家レベルの災害となった原因について、韓国の市民社会団体は、根本的な問題は医療を産業とみなす韓国歴代政府の「医療の産業化政策」にあると考える。
韓国では1989年に全国民健康保険が導入されて以来、医療需要が増加。人口当たりの病床数は、OECD平均の2倍超と爆発的に成長した。増えた病院のほとんどは民間病院で、規模や収益性を競争した結果、年間収益が1兆ウォンを超える超大型の「ビック5病院」が生まれた。その先頭が「サムスン」と「現代」の財閥。一方、国公立病院は80年代後半に約25%を占めたが、現在5%にまで縮小している。
民間病院は先端装備の購入や利益を追うだけで、患者の安全や医療人の補充には関心がない。救急室は救急患者のためのスペースではなく、入院待ちの患者が滞在する空間になっている。看護師数はOECD平均の3分の1に過ぎないため、患者の家族が世話をしなければならない。
また、総合病院が重症患者を診察し、町の医院・病院が軽症患者を診察するという患者依頼システムが崩れた。がん患者の五割以上が、ソウルのいくつかの超大型病院に集中しているのが現実だ。
結局、サムスン・ソウル病院の救急室は、救急患者の治療のためのスペースではなく、一人のMERS患者が80人を感染させる感染スペースになった。一日当たり外来患者が8000人を超え、病床数が2000の超大型病院に対する防疫措置を、政府は最初から諦めた。わずか5%しかない国公立病院ではMERS患者を隔離する「陰圧隔離病室」が不足しているため、感染初期から患者の入院施設を手配しづらかった。
それだけではない。地域の拠点病院が絶対的に不足しているため、感染の疑いがあっても受診できる病院がなく恐怖と混乱が広がった。さらに、「医療は産業だ」と唱える政府が国民の健康より病院の被害を懸念して、感染者が発生した病院名を公開しなかった。
人命の被害は言うまでもなく、政府発表だけで見ても経済被害はGDPの0・2%~0・4%に及ぶ。医療の産業化政策が、「病院が病気を作り出す」という逆説的な現実を生むとともに、経済の活性化はおろか、大きな停滞を招いた。
パク・クネ大統領は、「MERSの感染拡散問題後も医療産業化政策をすすめる」と宣言した。安倍政権もまた、医療産業化政策をすすめていると聞く。韓国でのMERSの感染拡散問題を他山の石にしてもらいたい。
この事態の教訓は、医療分野で財宝を追い求める医療産業化政策は、花を咲かせるどころか疫病と灰だけを残したということ。まるで、「花咲かじいさん」のように。
禹錫均(ウ ソッキュン) 医師。保健政策学、経済学専攻。健康権実現のための保健医療団体連合政策委員長。人道主義実践医師協議会共同代表。TPP─FTA汎国民対策委員会政策委員
いつでも元気 2015.10 No.288