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民医連新聞

民医連新聞

みんいれん60周年 公害の街に建つ「患者たちの病院」

 政全日本民医連は、今年創立六〇周年。困難な人に寄り添い、ともに「いのちの平等」の実現をめざして活動してきました。全国の仲間の奮闘をシリーズで伝えます。
 公害の原点と言われる“水俣病”。街の中心部にある水俣駅の 駅舎を出ると、そこからの道はまっすぐに「チッソ」正門に向かっています。水俣病の原因である有機水銀を三六年間(一九三二~六八年)にわたって不知火海 に流し続けた原因企業。その向かいに敢然と建つのが、民医連の水俣協立病院です。(丸山聡子記者)

熊本・水俣協立病院

自分たちの医療機関がほしい

産声を上げた診療所

 「患者たちの病院」。水俣病患者の掃本(ほきもと)博昭さん(76)は、水俣協立病院をそ う呼びます。「市内の病院は絶対に水俣病とは言わんかった」。六〇~七〇年代当時、患者団体は分断され、チッソ擁護の側が力を持っていました。「金目当て のニセ患者」とささやかれ、街全体が物言えぬ暗い雰囲気でした。「患者の立場に立つ医者がおらなければ、私らは声を上げられん」と掃本さんたちは考えまし た。
 同じ頃、熊本大学や民医連の医師の有志が、患者の掘り起こし検診をしていました。検診が日没までずれ込んでも、「患者さんの生活歴にこそ、水俣病診断の 手がかりがある」と、患者の話に耳を傾ける青年医師がいました。その藤野糺(ただし)医師の姿は、掃本さんらの脳裏に焼きついていました。藤野医師は水俣 市内の私立病院で水俣病患者を診察するかたわら、掘り起こし検診を続けていました。
 七三年、「被害の中心である水俣市に医療拠点を」と、患者、医療者や弁護士、教師、主婦などで建設委員会が発足。土地所有者への嫌がらせもありました が、「水俣病にとりくむ診療所なら」と考えを曲げず応援してくれました。
 掃本さんらは患者の家を回り、募金を訴えます。「つぶれっとやなかか」と心配されましたが、「一生懸命診てくれる先生たちのこったい、みんなで守るから 大丈夫やち」と話しました。五〇〇円、一〇〇〇円と集まり、銀行から一円も借りずに資金を確保しました。
 七四年一月、藤野医師を所長に看護師四人、事務三人の水俣診療所が誕生。二カ月後には患者数は一日一〇〇人超。患者たちは隣のバス停で降り、人目を避け て診療所に来ました。診療所は患者同士が気兼ねなく話せる場でした。
 水俣病だけを診たのではありません。薬で改善しない高血圧の患者宅を訪ねると、おかずは塩昆布だけだったとわかりました。「生活が苦しければ病気は良く ならない」と生活保護の申請を援助。初代事務長の中山徹さんは、「患者が地域で一つの人格を持って生きられるように。人間性を取り戻すたたかいだった」と 言います。
 高血圧、肝臓病、糖尿病の患者会発足につづき、健康友の会も誕生。病院建設の準備が始まり、七八年に開設されました。

訪問看護をスタート

 診療所開設からまもなく、上野恵子婦長は、通院困難な重症患者に訪問看護やリハビリをした いと考えました。当時は診療報酬もつきません。その熱意を、藤野所長も認めました。「上野さんが自転車で出かけたあとは、残った人でささえた。民医連だか らできたと思う」。中山さんは昨年亡くなった上野婦長を思い目頭を押さえました。
 診療所一周年記念誌の表紙に、布団に座る池田弥平さんの写真が載りました。重症の水俣病で寝たきりでしたが、リハビリで座位が保てるまでに回復したのです。
 リハビリを見ていた弥平さんの娘が、現・水俣協立病院総師長の山近峰子さん。家計を助けたいと看護婦になり市内の病院に就職するも、医療者にさえ「水俣 病のもんはよか。補償金もらって」と言われる日々。献身的に患者の元へ通う上野婦長や藤野医師の姿は衝撃でした。上野婦長の誘いで翌年から民医連で働き始 めました。
 やがて訪問看護に。胎児性患者の宮内一二枝さんは、心に残る患者さんです。お風呂あがりに化粧をし、「きれか」と鏡を見せると、嬉しそうに「アーアー」 と。お気に入りのレコードには、体を揺らして歌うように声を出しました。「話せなくても身体全体で気持ちを表現してらした」。一二枝さんは二九歳で亡くな りました。

水俣病の“病像”つきとめ

 七七年に環境省の「判断条件」が通達されて以降、水俣病の認定却下が続くようになりました。複数の症状がなければ認められず、「水俣病とはどんな病気か」という点が焦点になりました。
 これに抗する力になったのが、不知火海に浮かぶ桂島(鹿児島県出水市)の全島調査です。島ぐるみで住民を検診し、対照(コントロール)群として奄美群島 の加計呂間島でも住民検診を実施。桂島のほとんどの住民に水俣病が認められる結果に。裁判にも影響し、「感覚障害があれば水俣病」と国の基準を上回る判決 が出ました。
 七五年に着任した板井八重子医師(元熊本民医連会長)は、患者に流産・死産の経験が多いと気づき、八四年、妊娠についての調査を実施。業務後、懐中電灯を手に調査に歩いたのは女性職員でした。
 「どの女性も泣きながら話してくれた」と山近さん。「ぶどうご」という言葉を、聞き取りした約二〇人のうち複数の人から聞きました。胞状奇胎という異常 妊娠の一種で、通常は四〇〇~五〇〇例に一例。明らかに多発していました。
 調査の結果、ピークの六六~七〇年には異常流産は約二〇%にのぼり、有機水銀の原因であるアセトアルデヒドの生産最盛期とほぼ一致しました。公害が命へ の挑戦であることを、板井医師や山近さんは語り続けています。

目の前に困っている人がいる限り

掘り起こし検診は今も

 医師を先頭に医療スタッフが地域に出かけ、ときには船で海を渡って行う掘り起こし検診は、 今も続けられています。二〇〇九年と一二年には、全国の民医連などの協力でそれぞれ一〇〇〇人規模の検診を実施。「もう終わった」とされる水俣病が現在も 広範な人たちを冒し、救済されずにいることを世に示しました。
 「創設メンバーが引退していく中、ここ数年のとりくみで若い職員たちが被害と向き合い、成長した」と前事務長の松田寿生さんは言います。
 同院の職員には、父親などがチッソに勤めているという人も少なくありません。〇九年に事務長になった神崎光明さんもその一人。父からは「水俣病にはかか わるな」と言われてきましたが、命がけで水俣病患者を救済した人たちの存在を知り、同院に就職しました。
 九五年の水俣病の政治解決以降、「水俣病問題は終わった」と感じていました。二〇〇〇年代半ばから新たに検診を始めた頃、同僚たちから「休日にやるのは 大変」との声も上がりました。しかし、ほとんどが救済外とされた天草地域の検診で、水俣市の患者と同じ症状を訴える住民たちを目の当たりにし、「魚しかな い時代に苦労して生きてきた人たちが、いま苦しんでいる。それを見て、やはり自分たちの役割があると思った」と言います。
 「被害を受けた人がそこにおるからですね、SWとして放っておけません。ほかの病院はやりませんから」と話すのは、同院のSW・渕上真也さん。自分と同 じ二〇代の人が検診に訪れ、水俣病の症状があることを知り、「法律では救済が終わりましたが、若い人たちの症状が重くなった時、救済されるよう、やること がある」と言います。「民医連は、社会保障にたとえたら生活保護。セーフティーネットだと思う」と渕上さん。

みんなで考えて

 病棟師長の森下孝子さんは、「ネコはきりきり舞いして死ぬもんだと思っていた」というほ ど、水俣病の近くで育ちましたが、身内にチッソ社員がおり、声を上げられませんでした。三〇代後半で同院に就職。「症状に苦しみながらも、自分が水俣病と 気付かずにいる人がたくさんいることに驚いた」と言います。最近も東北や大阪から問い合わせがありました。「救済されるべき人が見捨てられている。そこに 目を向け、その人らしく生きられるよう実践するのが民医連。なんとかできないかとみんなで考えてやってみる。大変だけどやりがいがある」。
 訪問看護を始めたときと同じように、前例や制度がなくても、患者さんを中心に考え、挑戦しています。「最後の砦と思ってやっています」と話すのは、透析 室の看護師・梅北志津子さん。結婚して水俣市へ。水俣病や社会の問題をあまり知りませんでしたが、「水俣病を通じて、社会や制度がしっかりしていなけれ ば、患者さんは医療を受けられないことを知った」と言います。「忙しいけれど、やりがいがある。できないときはみんなで助け合う。それが民医連でしょ」と 笑いました。

(民医連新聞 第1539号 2013年1月7日)